高台寺(こうだいじ)の幕末

 春の桜、秋の紅葉が美しい高台寺は、豊臣秀吉正室の北政所・ねねが夫の菩提を弔うために慶長11年(1606年)に創建した寺院です。

 いくつもの京都の寺院が幕末には新選組などの屯所となりましたが、高台寺塔頭の月真院が伊東甲子太郎らの御陵衛士の屯所となりました。月真院は高台寺境内の西のねねの道沿いに建つ塔頭寺院です。月真院は一般には公開されていません。

 高台寺は桜も紅葉もきれいです。高台寺をクリックして別サイトの紅葉の写真もご覧ください。

月真院御陵衛士屯所跡の由緒

▼下の文章は高台寺に掲示されている京都市の駒札(下の写真)をそのまま再録しています。

御陵衛士屯所跡
(ごりょうえしとんしょあと)

   ここ高台寺月真院(げっしんいん)は、慶応(けいおう)三年(一八六七)六月から十一月にかけて、熱烈な勤王主義者であり、孝明(こうめい)天皇の御陵衛士(ごりょうえし)(天皇の墓の守護者)と称した伊東甲子太郎(いとうかしたろう)ら十五名が屯所とした寺院である。彼らはこの寺院を本拠として活動していたため「高台寺党」とも呼ばれている。
 伊東は常陸(ひたち)(茨木県)の出身で学問優秀、剣は北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の名手であった。元治(げんじ)元年(一八六四)江戸から京に移り、新選組に入隊し参謀となったが、やがて近藤勇(こんどういさみ)や土方歳三(ひじかたとしぞう)らと意見を異にし、遂に慶応三年三月、新選組と袂(たもと)を分かち、同志十四名を連れて御陵衛士に任名され、ここを屯所とした。この中には江戸の試衛舘(しえいかん)時代からの隊士、藤堂平助(とうどうへいすけ)の姿もあった。それ以降、薩摩藩の援助をうけ、雄藩(勢力の強い藩)をまわってさかんに勤王様を説いた。
 慶応三年十一月十八日、伊東は近藤勇から酒席の接待を受けた帰り、油小路木津屋橋(あぶらのこうじきづやばし)で待ち伏せをしていた新選組に謀殺され、さらに伊東の遺体を引き取りに来た多くの同志も、新選組隊士によって斬られ、御陵衛士隊の活動は終止符を打った。
    京都市
▲上は高台寺に掲示されている京都市の駒札(下の写真)の文章をそのまま再録しています。