霊鑑寺(れいかんじ)

 真言宗山階(やましな)派大本山の勧修寺は、醍醐(だいご)天皇の母・藤原胤子(いんし)を弔(とむら)うために平安中期に創建され、その後法親王(ほうしんのう)が入寺する格式高い門跡寺院として栄えました。兵火で焼失したこともありましたが、皇室や徳川家の援助で再興されています。

 霊元(れいげん)天皇より仮内侍所(ないしどころ)を賜った書院が重要文化財に指定されています。本尊の千手観音像は本堂にお祀りされています。

霊鑑寺の宗派 臨済宗南禅寺派
霊鑑寺の拝観 春、秋の期間限定で有料公開
拝観料 大人600円、小学生300円、
   団体(15名以上)1割引
霊鑑寺の所在地
京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町12
 (哲学の道の東の道沿い)
霊鑑寺へのバス
市バス「錦林車庫前」下車、徒歩約10分

霊鑑寺の由緒

▼下の文は霊鑑寺の門前に掲示されている京都市の駒札(下の写真)を再録しています。

霊鑑寺(れいかんじ)
(谷御所(たにのごしょ))

 臨済宗南禅寺派の禅尼寺で、はじめ、南の鹿ケ谷(ししがたに)の渓流沿いに位置したため、谷御所又は鹿ケ谷比丘尼(びくに)御所とも呼ばれている。
 承応三年(一六五四)に後水尾(ごみずのお)上皇が皇女・浄法身院宮宗澄(じょうほっしんいんのみやしゅうちょう)を開基として創建し、荒廃していた如意寺(にょいじ)の如意輪観音像と霊鏡(れいきょう)を併せて祀(まつ)ったことから霊鑑寺と名付けられた。
 貞享(じょうきょう)四年(一六八七)に、後西(ごさい)天皇の旧殿(今の書院・居間)を賜って現在地に移建された。その後、代々皇女、皇孫女が住職となり、明治二十三年(一八九〇)までは伏見宮の尼僧が門跡(もんぜき)として在院した。
 現在の本堂は、徳川幕府十一代将軍・徳川家斉(いえなり)の寄進で、本尊の如意輪観音像の傍らの不動明王像は伝教大師の高弟・智証大師(円珍)の作といわれる。後奈良(ごなら)・正親町(おおぎまち)・後水尾・後西天皇の宸翰(しんかん)をはじめ、二百点に及ぶ御所人形、東福門院の十二単(ひとえ)、歴代門跡の遺品など、皇室ゆかりの寺宝が多い。
 境内には、後水尾上皇遺愛の散椿(ちりつばき)のほか、多数の名椿が植えられている。
 京都市
▲上の文は霊鑑寺の門前に掲げられてある京都市の駒札(下の写真)をそのまま再録しています。

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