勧修寺(かじゅうじ)
真言宗山階(やましな)派大本山の勧修寺は、醍醐(だいご)天皇の母・藤原胤子(いんし)を弔(とむら)うために平安中期に創建され、その後法親王(ほうしんのう)が入寺する格式高い門跡寺院として栄えました。兵火で焼失したこともありましたが、皇室や徳川家の援助で再興されています。
霊元(れいげん)天皇より仮内侍所(ないしどころ)を賜った書院が重要文化財に指定されています。勧修寺本尊の千手観音像は本堂にお祀りされています。
勧修寺の由緒
▼下の文章は勧修寺の門前に掲示されている京都市の駒札(下の写真)を再録しています。
勧修寺(かじゅうじ)
真言宗山階(やましな)派の大本山で、平安中期の九〇〇年に醍醐(だいご)天皇の母・藤原胤子(いんし)を弔(とむら)うために、胤子の母の実家である宮道家(みやじけ)邸宅を寺に改めたのが始まりといわれる。
天皇の祖父に当たる藤原高藤(たかふじ)の諡(し)号をとって勧修寺と名付けられ、のちに醍醐天皇の勅願寺となった。
代々法親王(ほうしんのう)が入寺する門跡寺院として栄えたが、文明二年(一四七〇)に兵火で焼失し、江戸時代に徳川家と皇室の援助により再興した。
本堂は、霊元(れいげん)天皇より仮内侍所(ないしどころ)を、書院(重要文化財)と宸殿(しんでん)は、明正(めいしょう)天皇より旧殿を賜って造られたといわれ、本堂内部に本尊・千手観音像を祀(まつ)っている。
書院前の庭にある大きな傘を持つ燈籠(とうろう)は、水戸黄門で知られる水戸光圀(みとみつくに)の寄進と伝えられ、「勧修寺型燈籠」と呼ばれている。その周りには樹齢七百年と伝えられるハイビャクシンが植えられている。
氷室池(ひむろいけ)を中心とした優美な池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)の庭園は、平安時代の作庭と伝えられ、夏の睡蓮(すいれん)や蓮(はす)で有名である。
京都市
▲上は勧修寺の門前に掲示されている京都市の駒札(下の写真)の文を再録しています。